自分ラブレター

私がちゃんと私になるための衣装棚

もう一度生まれ変われるか

 

愛とはなんなのか、みたいなことをばかみたいに考えては嘆いている。

自分が納得するような(気持ちが落ち着くような)定義づけをしようともがいている。

無理やり、だから大丈夫、と自分を慰めている。

 

私は「必要とされること」に対しての執着が凄まじい。

私じゃないとできないことなんだね、私の介在によってそれが解決したんだね、などと感じられることが大好きだ。

それをはっきり自覚したのは社会人になってからだと思う。

そして1回目の転職をした25歳頃から日に日にその欲求は強くなっていくような気がする。

一通り社会人としての仕事のこなし方を覚えて、さあ自分はどこに行こうか、と一度立ち止まったあたりからだ。

 

自信がないことに気が付いてしまった。

だからほしい。生きることに大層意味のある私であってほしい。

それには他者から望まれることが必要だ。今のところは。

 

仕事をすればするほど、自分の悪い部分が訥々と湧き出てくる。

今やぶくぶくに膨れ上がった「私を認めて」という欲求。

 

高校生あたりでよく考えていた「自分とは」みたいな孤独な問いを、またすることになるとは思わなかった。

数年分の人生経験や価値観が追加されたから当時より複雑で重みを感じる。

このときには他人と共存しなければ生きられないという価値観にすっかり理解と共感していたので、

「私はこれでいい」とますます思えない。

主体性がないくせにガンコで、白か黒か、みたいな性格をした私は

「これでいい」の結論を出せないことが本当に苦しい。

悲劇のヒロインになりきることも、もう無理だ。

 

 

去年、結婚をした。

恋人と夫婦になって、恋愛みたいに「ダメでも次があるし」と容易に切れない関係になったことは

私にとっては恐怖でもある。

 

いい妻でいなきゃ、完璧でいなきゃと思っているわけではない。

その傾向は元々強くあったけど、それは私の世界が崩壊した最初の頃に、

当時恋人だった旦那のおかげでそれに縛られなくなった。

 

私は「夫婦死ぬまで仲良くいたい」という、そういう思いもある。

物心ついたときから、両親は表面的には不仲ではないけれど冷めきっている夫婦で、それが嫌だった。

だって、結婚を決めるくらいの想いがあって、縁あって結ばれた2人なのに。

 

しかし自分が当事者になってみると、そんな私の思いなんてあまりにも介在の余地なんてなかったのだ。

当時の私にとって、親は”親という人種”であって、”ひとりの人間”ではなかった。

だから「仲良しじゃないお父さんとお母さんは嫌」と言いながら、

その実 人間としての2人をまったく見ていなかった。

「気持ちがないなら別れればいいのに」と本気で思っていたが、それは私には関係ないことだった。

 

私には彼しかいなくなった。

それは「この人じゃなきゃ生きていけない」なんてかわいらしい戯言ではない。

私は彼がいなくても生きていかれる。

でも、この人と生きる覚悟を決めたときに、この人しかいなくなった。

 

「夫婦仲良し」でいるためには、彼の気持ちと価値観を汲み取る必要がある。

心情的にも、彼をとても大事にしたいと思う。

愛している男に、自分らしく幸せになってほしい。

でも私も、幸せになりたい。1人の幸せはもうわかっているから、彼と一緒にいる私でも幸せになりたい。

だからわからない。

もう1人じゃないから。彼がいるから。

 

私の母は、父のいうことに逆らわなかった。

それで泣いている母を見たことがある。ずっと我慢をしている人だった。それが嫌だった。

だからわからない。

一方の気持ちを、一方は我慢するしかない、私はそのモデルだけ見てきたから。

 

よく2人の妥協点を見つけろ、と言われる。そんなのは簡単すぎて、他人に言われなくても既にやっている。

そこじゃなく、何かをどうこう取り決める前に、気持ちを受け入れて認められることを私は望んでいる。

そうされなかった母を、1人でこっそり泣く母を、子供の成長を生きがいにするだけの母を見てきたから。

 

恐ろしい。

こんなにも自信がなく、認められたい、受け入れられたいと思っている私は

一番なりたくなかった父と母に、一番近い。

 

自然にできる愛と、作り上げる愛の2つがあると思う。

でも、私には前者ができるほど人間ができていないし、後者を成し遂げるほどの力量もない。